沢井城(石川町大字沢井舘)
石川町西部の標高332m、比高50mの通称「館山」にある。
東方約6kmに三芦城、西側一帯に石川氏の城郭群、赤館、権現山砦、一夜館、阿武隈川を挟んで北西方約2.5kmの地に滑津館、さらに西に国神城、観音山館がある。
城のある館山は、ほぼ独立した山であり、山全体が城であり、山頂・山腹部をはじめ派生する尾根先端部にまで遺構が展開する。
城域は東西約440m、南北約450m位ある。最高個所に直径50m程度の本郭を置き、周囲に帯曲輪が2重3重に囲む。

城の主郭部の東下には、宝海寺(真言宗)があり、ここが居館跡であろう。
その東には八幡神社があり、ここも出城である。城へは宝海寺南の墓地から入るが、城址は荒れた杉林であり、倒木が多く、地面はシダに覆われジメジメしている。
冬場以外は見学することはほとんど無理である。

しかし、遺構は、日当たりが良い南斜面が畑になって、遺構が破壊されているようであるが、主郭部などはほとんど破壊されていないようである。
東の鞍部には堀が2本存在する。大きな穴がいくつも開いている。
これらは井戸と思われるが、こんなに多くの井戸を掘るものだろうか。何かを掘った跡のような感じでもある。
注目すべきは城主は石川有光の子・基光が開いた沢井氏である。

沢井氏は石川氏の最有力な一族で、沢井城は三芦城の西の防衛拠点であり、赤館、権現山砦、一夜館等、石川領西方の城砦群の指揮所であり、戦国前期は、白河結城氏とはここを拠点に戦っていたものと思われる。
しかし、戦国時代後半になると佐竹氏の進出が活発になり、白河結城氏も石川氏も佐竹氏の従うようになり、永禄11年(1568)6月に南奥に進出した常陸の佐竹氏に起請文を提出し、以降約20年間、石川氏とともに佐竹氏に従った。

その後、沢井城は、赤館城や滑津館の中継地として、佐竹氏が拡張整備したと推測されるという。(石川町史 第三巻)
根宿、打出などの字名も残る。

藪が凄くてこの城を完全に見ることはできなかった。
鳥瞰図は見た範囲を中心に描いており、実際はもっと曲輪は多く、見ていない堀切なども存在すると思われる。なお、図中の番号は写真の撮影位置を示す。
右の写真は北西方向から見た城址のある館山。

国土地理院昭和50年撮影
@宝海寺の地は居館跡だろう。 A 井戸と思われる穴。水がある。 B 本郭の土塁であるが、藪。
C 本郭東側の堀 D 鞍部を切断する堀 E 鞍部東側の曲輪の土塁

三芦城(石川町)
「みよし」と読むのだそうである。単に「石川城」ということもある。
阿武隈川支流北見川沿いの石川町中心部北側から西側にかけての標高300m、比高50mの山一帯が城址である。
本郭は石都々古和気神社の本殿が建ち、直ぐ西下まで車で行ける。この駐車場が二郭の跡である。
城域は神社の建つ部分を中心とした本城部分とその西側の西館がメインの部分であり、この範囲は300m×200mに及ぶ。
しかし、本来の城域は国道118号が通る北側の山一帯まで広がる広大なものであったという。
神社社殿の建つ本郭は長さ100m、幅50m程度の大きさであり、西側を土塁が覆う。
この土塁の南北2箇所は高くかつ広くなっており、天守相当の物見櫓があったと思われる。
本郭付近が凄いのは巨岩が各所に林立していることである。長さ7m近くもある巨岩が東側、南側にあり、岩の間に城があるような感じである。
石川町歴史民俗資料館の管理人さんがいうには、「川が町の真ん中を流れ、でかい岩が一杯あるので石川ってつけたんだ。」と冗談まじりに言うが、妙に納得してしまう。意外と真実ではないだろうか。

ところでこの石川というところは鉱物資源の宝庫であり、石川町歴史民俗資料館のメインの展示は鉱物である。
巨大な水晶や80p四方もある単結晶、黒水晶は見事である。城を見たらここに寄ることをお奨めする。ちなみにここには、この城の模型も展示してある。

本郭の南側と東側には帯曲輪があり、東側には堅土塁を伴う竪堀が2本下っている。
神社参道が南側から延びているが、急傾斜のため石段である。この参道が本来の大手道のように思えるが、それにしても勾配が急すぎる。
下までは20mほどもある。神社本殿東下に岩で囲まれた曲輪のようなスペースがあり、参道が岩の間を通る。
これは完全に石門である。ここから南に下ると鳥居の東に30m四方の平坦地があり、土塁が東側を覆う。
ここから参道入口までの道も巨岩がいくつもあり、石門があったようである。この参道南下側にも曲輪が見られる。
一方、本郭から西に8m下ると駐車場となっている二郭である。二郭は本郭の南側から西側に回っている曲輪である。
さらに北側に下ると竪堀が2本あり、その間に櫓台のような場所がある。さらに北側の裾にも平坦地があり、これも曲輪跡であろう。
一方、駐車場から西の山に向けて未舗装の車道が延びる。
この西側の山が西館である。車道建設で半分以上埋められてしまったというが、西館との間に巨大な堀切があったという。
車道の両側にその残部が見られるが、幅20m、深さ7m程度はあったと思われる。
南側の堀底を見ると薬研堀ではなく、底が平坦な箱堀であったようである。北側を見ると、堅土塁を伴ないしかも湾曲していることが分かる。

西館は本城部に向かって傾斜しているが、携帯電話?の中継所のある付近に堀切や曲輪群が見られるが、遺構は本城部分に比べて不明確である。
その西は細尾根状になっているが,先の山のピーク部にも物見台があったという。
石川氏は清和源氏であり、始祖有光が父頼遠とともに「前九年の役」に源頼義に従い出陣しその功績で石川の地を与えられ、摂津から移り住み、石川氏を称したという。
源頼朝の奥州藤原氏攻撃でも石川氏も従っている。
鎌倉時代は北条氏に接近するが、新田義貞が討幕の兵を挙げるとこれに加わり、鎌倉幕府が滅亡後は建武新政府に参加する。
しかし、北条氏との関係が良かったことから余り優遇されなかったようである。
このため、足利尊氏が反旗を翻すといち早くこれに従う。当主義光は尊氏に従い九州まで下向し、坂本の合戦で戦死している。一方、本領の石川も南朝方白河結城氏と境を接するため戦闘状態となるが、始終劣勢のままであった。
石川氏からは沢田、大寺、小高、坂地、河尻、矢沢氏などが出るが、戦国時代には一族の赤坂、大寺、小高各氏は白河結城氏に、竹貫氏は岩城氏に属するようになる。これは石川領が近隣の大名から侵食されていたことを示す。
戦国時代末期には宿敵、白河結城氏の勢力は衰え、田村氏、葦名氏、二階堂氏、畠山氏等が乱立し、互いに連合、離散を繰りかえし抗争を繰り広げる。石川氏は田村氏等に圧迫されほとんどの領地は奪われた状態となる。
しかし、佐竹氏の北進が始まると今度は佐竹氏の脅威が増加、結局、石川氏は佐竹氏によしみを通じ、その一方では永禄六年には伊達氏から晴宗の子昭光を養子に迎え、伊達氏との共存の道も探り二又をかけることで、当面の敵、葦名氏、田村氏に対抗する抜かりのなさを発揮する。
結局は一族の鮫川の赤坂氏、浅川氏が佐竹氏に属し、石川昭光も佐竹氏に服属し、葦名、二階堂、白河、佐竹との微妙なパワーバランスが保たれる。

伊達政宗が南下し始め、大内氏を破り、二本松の畠山氏を狙うと状況は一変する。伊達氏に対しては佐竹氏を中心とした反伊達連合軍が結成され、石川氏もこれに参加する。
人取橋の合戦、郡山合戦にも連合軍の1翼として参戦するが、伊達氏の侵攻は食い止められず、摺上原で葦名氏が敗れ滅亡すると、石川氏や田村氏が伊達氏の次のターゲットになる。
ここで石川昭光は伊達政宗の叔父ということで伊達氏に従うことになる。
伊達氏から養子に入った効果が出たわけである。しかし、小田原の役では、伊達政宗に参陣を抑えられ、その結果、改易されてしまう。
石川昭光は伊達一門であったため、政宗家臣となり一万石で角田城に住み、その子孫は伊達氏の重臣として続いた。
戦国時代を通してあまりパッとしない一族ではあったが、現在までその血を伝えていることは幸いであったと言えるだろう。

本郭内部南側。天守台のような土壇が神社背後にある。 本郭の西側。北に向かい土塁が延びる。 土塁上から南の一段高い部分を見る。左が神社社殿。 土塁上から見た本郭内部。
本郭東下に石門のような場所がある。 本郭南下の帯曲輪。西側まで半周する。 北から見あげた本郭。 本郭南下の曲輪。土塁が東側を覆う。
神社参道。巨岩が林立する。 西館と本城部を区切る堀切の北側。 西館内部。遺構は余り明確ではない。 西館の南端。土橋状の尾根で南の山地に続く。正面の山にも砦があった。

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